幸田文ー月の塵
第66冊目は、幸田文のエッセイ「月の塵」を紹介します。私の持っている18冊の文庫本のうちの最後の1冊です。とうとうここまで来たかと感慨深いですね。
このエッセイ集、さりげなく名文が入っています。そして、将棋ファンが喜びそうな露伴が将棋好きというエッセイがあるのもこの本です。
名文だと思ったのを一つ紹介しましょう。
「人は生れて死ぬまでに、いくつの座を持つものかと思います。赤ん坊の座、童女の座、学生の、娘の、妻の、母の、祖母の座。いろんな座が与えられます。・・・中略・・・似るとは、哀しくも懐しいことです。そして、なんとぴりぴりと痛いことだろう、とおもいます。人も自分も大切にしなくてはならないのは、母の座だと思います」
読んでいると深さにしみじみします。『残された言葉』で思う親と子。生みの母も育ての母もない、結局、母は一つだと44歳をすぎてようやく納得できた作者の気持ちが結ばれた名文です。
そして、『台所の音』。あの名作のルーツは露伴の一言にあったのかとわかって、興味深く読みました。京都のおんなのひとはどういうところが優しいか、台所へ気をつけてみるんだ、というのです。そして、露伴の言葉は「音をたてて」幸田文の心に沁み込み、大事にしまっておかれたのです。
「人のくらしには、寝るにも起きるにも音がある。生きている証拠のようなものだ」
ありとなしとの境目を思う『ありなし川』。初めに読んだときは何のことだか分らなかっただろうなと思います。年をとってからもう一度読むと違いますね。
「一つおぼえは馬鹿だというが、二つ目をおぼえればさて何になるのだろう。うら淋しく思うのである」
幸田文の文庫本、名残り惜しいですが、ここまでで紹介完了です。
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