3回以上読んだ文庫本を紹介

3回以上読んで本棚に残した(売らなかった)上に、自炊して電子書籍化し、さらにもう1度電子データで読んだ文庫本を紹介します。

佐藤忠男ー見ることと見られること

第99冊目は、佐藤忠男の評論「見ることと見られること」を紹介します。

ルース・ベネディクトが「菊と刀」で書いたような以前の日本を想像してみてください。その時代には、村で祭りがありました。結婚式も村単位で総出で行われました。成人式も七五三もそうでした。誰もが晴れがましい場面で、皆から見られるという経験があったのです。今は別の行事となっている花見も、花を見るだけでなく、人が注目を浴びる晴れがましい場だったのだと筆者は説いています。

引用「このようにして、ふつうの人の一人ひとりに見られることの晴れがましさをもたらす文化的制度は衰退した。それと逆に、人が他人を見る方法は、近代において急速に発達し肥大化してきている。写真、映画、テレビ、ビデオ、などなどである」

ビデオが出てきたことによって、自分が見たいシーンだけをつなぎあわせて前後関係なく何回も見ることができます。これを筆者は「他人の視線からの自由」といいます。そして、見ることと見られることのバランスが崩れすぎるとよくないと述べています。

駅前商店街に買い物にいってみましょう。八百屋さんの店先であいさつするとき、私たちは八百屋さんを「見る人」であり、同時に八百屋さんから「見られる人」でもあるわけです。ところが、スーパーマーケットでは、私たちは人ではなくなり、お客さんになります。スーパーマーケットの店員も店員という仮面をかぶった何かになり、人ではなくなります。これを筆者は「見ることと見られることとのあいだに冷たい裂け目がある」と呼びます。かつて、マクドナルドの店員に話しかけるおばあさん、コンビニ店員と会話する高齢者の話題がありました。おばあさんにとってはマクドナルドもコンビニもそこにいる店員は見る人と見られる人との関係が成り立つような人だったのでしょう。ところが、私たちはそのような関係を店員と結ぼうとしていません。だから、奇異に感じるのです。

かつては長屋があり、大家さんがいて、借家人であっても、見る人と見られる人との関係を結べる小集団が誰もにありました。今は、核家族化、単身世帯化が進み、見る人と見られる人の関係を築ける小集団に属しにくい社会です。
テレビを見ることはできますが、一方的に見るのであり、見られる人になる機会は減っているのです。

この後、本では「喋ることと喋られること」、「笑うことと笑(え)むこと」について語ってから、筆者の本業である映画評論と絡めて、映像文化のこと、「撮る人と撮られる人」などについて書いています。
一本筋の通った読み応えのある評論を読みたい人におすすめです。